両国国旗がはためく |
午後から、大島にあるパン屋さんnagiへお茶をしに行ったが、生憎満席。それじゃ花見に行こうかと車を走らせた。道路沿いにオオシマザクラが多く見えるが、まだ5分咲き程度だった。山桜のピンク色は見つけられなかった。景勝地の海金剛へ行くことに。そこの駐車場のそばに「日米修好記念館」なる建物がある。日本と米国の国旗が建てられている。日米修好といえばペリーの時だから、浦賀の方じゃないのかなと思いつつ、帰ってWikipediaで調べた。すると結構すごいことが分かった。地元にいて知らなかったのは恥ずかしいけれど。
日米修交記念館(にちべいしゅうこうきねんかん)は、日本初の黒船来航地である和歌山県東牟婁郡串本町の紀伊大島樫野埼に建つ博物館である。
アメリカ商船レディ・ワシントン号とグレイス号が寄港した雷公の浜の北側に1975年に建てられた。館内には寄港当時の光景がジオラマで再現され、レディ・ワシントン号の模型や資料・写真とともに展示されている。
日本の教科書等で日本とアメリカ合衆国の交流の最初は、1853年のペリー提督が浦賀に黒船4隻で来航した時とされているが、アメリカ合衆国においてはアメリカ人として日本に最初に渡航して貿易を申し込んだのは1791年のジョン・ケンドリックが串本町の紀伊大島に来航した時となっている。彼が乗ったプライバティア(国代表としての資格)を有する商船レディ・ワシントン号の船名とともに大多数の歴史書にその名は刻まれている。アメリカ合衆国ではこれを重要な史実としてとらえられており、ワシントン州アバディーン市では1989年にレディ・ワシントン号の再建造が行われたほか、ウエアハムにあるケンドリックの旧宅がケンドリック記念館として保存・公開されている。
ケンドリックの一行は、当初の計画から交易という明確な目的をもって紀伊大島に寄航しており、住民に警戒心を与えないために「漂着」と装ったことや毛皮の貿易を申し込んだことが書簡や公文書(『マサチューセッツ海事史』ほか)などから明らかになっている。アメリカ合衆国ではこの事実を認識した歴史になっている。一方、日本ではあくまで「漂着」として来航し、さらに地元住民との交易交渉に失敗して、幕府などと交渉すること無くそのまま日本を離れたケンドリックの事は、ペリー来航などと比べると重要な出来事とは捉えられておらず、教科書には掲載されていないことから現代でもあまり知られていない。
トルコのお守り
樫野崎の駐車場で見つけた。トルコのお守りだって。串本はトルコと友好都市だからね。別の場所にも同じものがあるのだが、不思議な形をしている。二人して、おっぱいみたいだねえと言いあった。小さなものは目玉のアクセサリーみたいな形で売られているのだが、こんなに大きいとねえ・・・ この近くには、トルコ人の店があり、そこではよく伸び~るトルコアイスやアクセサリーやキリムなどが売られている。
アメリカだったりトルコだったり、片田舎の町なのに国際色豊かだ。
アメリカだったりトルコだったり、片田舎の町なのに国際色豊かだ。
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